これまでの歩み

1928年 医師 吉村忠蔵が岡崎城にほど近い菅生川沿い殿橋のたもとで診療所を開院する。
太平洋戦争後、岡崎市柱町字東荒子123番地に移し、産婦人科外科診療所を新たに開院。
1961年 忠蔵に代わって忠蔵の次男 正(ただし)が診療所を引き継ぐ。
1972年 正が旧診療所の東隣に現医院建物を建て、産婦人科「吉村病院」を開院。
1977年 医院の正面にあった民家を買い取り、「かりがね荘」と名付け、"自宅風分娩”(※1)をはじめる。
1980年前後〜 正が趣味が高じて病院裏庭に移築していた古民家を古典的労働体験の場として妊婦さん方に開放しはじめる。(※2)
「妊婦ピクニック」をはじめる。(※3)
これらの取り組みは予防医学の観点からも効果的であることが実践の中から見出されていく。
1993年 一般的な分娩室の他に、大きな入院室を畳敷きの和室分娩室に改装し、院内での「畳の上でのお産」をはじめる。
個室の入院室も畳敷きの和室と洋室の個室に改装。
新生児室をやめ、母子同床の入院スタイルにきりかえる。
1998年 吉村忠蔵が建てた旧診療所跡地に、正が伝統的工法による日本家屋のお産施設「お産の家」を建て、院内助産院的な取り組みをはじめる。
2000年 本院外来部分を改装し、「吉村病院」から「吉村医院」へと改名。助産師を中心とした新たな診療体制で再スタートをきる。(※4)
2003年 田中寧子(やすこ)が産婦人科医5年目にして、東京で開催された吉村 正の講演会で正の産科医療の考え方とその実践に感銘を受ける。産婦人科医として、吉村医院は寧子の目標となる。
2010年 田中寧子が吉村医院にて研修医として入職する。
2011年 吉村 正が病に倒れ、田中寧子が診療を引き継ぐ。
これ以降、医院、お産の家、古屋の運営がさまざまに模索される。
2012年 田中寧子が副院長に就任。
2014年 前年に引退した吉村 正に代わり、田中寧子が吉村 正から現吉村医院の施設を借りる形で新「吉村医院」が新たにスタートする。
古屋労働、妊婦ピクニック、両親学級等の産前サポートの試みも引き継がれる。
お産の家と古屋が、NPO法人相よるいのちの会の管轄になる。
2017年 田中寧子自身が吉村医院の和室分娩室で女児を出産する。
産休と育休は全国から集まった産婦人科医師とスタッフに支えられて成立した。
それ以降、そのうちの一人、熊谷翔平医師と田中寧子の二人医師体制での診療がはじまる。
2019年 古屋労働が終了し、妊婦さんの産前サポートと交流の場、「和」(なごみ)がはじまる。
2020年 ホームページをリニューアル。
2022年 3月25日、旧「吉村医院」の道を挟んだ正面に新築移転。「吉村医院 あさひ産婦人科」を開院。
(※1) 当院の一部門として、医療的サポートのもと、自宅分娩さながらに一軒家にて家族でお産を迎え、産後もそのまま家族一緒に過ごせるお産の場を作りました。その家は「かりがね荘」と名付けられ、和室分娩室ができるまで稼働しました。
(※2) 古民家「古屋」(ふるや)では、妊婦さんが集まって薪割り・板戸拭き・雑巾掛けなどに取り組み、昼食を共にしました。そのなかで、「井戸端会議」的な妊婦さん同士のざっくばらんで親密な交流が自然に生まれていきました。
「古屋」は妊婦さんのこころとからだを活性化させる場となり、古典的労働体験は「古屋労働」として親しまれました。
(※3) 月に数回、医院スタッフが妊婦さん方を引率して、近隣の里山などへウォーキングにいく産前サポートの一環のイベント。時には、医師や助産師が同行することもありました。
(※4) 古屋労働や妊婦ピクニック、両親学級など充実した産前サポートの取り組みはそのままに、助産師を中心としたお産の診療方法をはじめました。一般的な産科医療における医師中心の診療方法とは異なる画期的なものでした。
古屋労働や畳の上でのお産は脚光を浴び、たびたびテレビや雑誌、映画に取り上げられました。

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